せんだい藩の天文学史 コラム No.2 |
| ■ 渋川春海と土御門泰福に関する誤解 |
| 渋川春海は、貞享の改暦の後に幕府の天文方に任じられました。これ以後、朝廷の土御門家が一手に引き受けてきた造暦の実権は、幕府天文方に移されたと言います。元々、京都で生まれ育った渋川春海と土御門泰福は、改暦以前から神道家・山崎闇斎の門人として旧知の仲でした。春海が泰福から土御門神道を伝授されたことから、二人は師弟関係とありますが、むしろ友人同士であったと考えています。 改暦の時、大統暦の採用を提案した泰福に対し春海は、自らが発明した暦を対案としました。二人は京都土御門家に八尺の鉄表(太陽高度を測るための機器)を立て、どちらの暦が優れているかを観測で検証しました。この結果をふまえて、土御門泰福は大統暦の採用に傾いていた朝廷を説得し、春海の暦が採用されたのです。 しかしながら、従来から多くの人々が“二人は対立関係にあった”と解釈しています。造暦の実権が江戸に移ることや、意見の違いが見られるなど、確かに、陰陽道・朝廷の暦職家と、近代天文学の祖・幕府の天文方という二人の間に対立の構図は描き易いものです。更に、七十年後に行われた宝暦の改暦では、幕府の天文方と土御門家が改暦の進め方を巡り、真っ向から対立しています。土御門泰邦は、とうとう過去の因縁を晴らして実権を取り戻したというのです。 しかし、仙台に残る名取春仲関連の書物、つまり、渋川春海の門弟筋が書いた書物には、二人の信頼関係を示す記述はあっても、対立関係は一切記されていません。また、岩手県一関の配志和神社には、土御門泰福と渋川春海が一緒に祀られていたという事実も見つかります。果たして、春海の門人が対立関係にあった二人を同じ神社に祀るでしょうか。春海も泰福も、春海の改暦に力を貸したとされる幕府の重臣たちも、みな、山崎闇斎に神道を学んでいた人たちです。貞享暦を巡る争いは、あくまで朝廷の古い体質と、闇斎門下生の間に生じたと考えます。造暦の実権が江戸に移ったというのも、大きな誤解かも知れません。暦の出版権はあくまでも土御門家にあり、単に執筆者が土御門家から幕府天文方に変わっただけのことかも知れません。同じ師に学んだ一門は、幕府・朝廷の間を越え、目先の利害とは縁のない結束力があったはずです。 |