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せんだい藩天文学史 コラム No.3

 
 ■仙台はなぜ、いち早く天文を受け入れたのか?
 
 春海による貞享の改暦(1684)の直後のお話。
 江戸藩邸で勘定方を勤めていた仙台藩士の江志知辰は、元禄六年(1693)に春海の門人となり仙台に天文を伝えています。この頃、春海の天文暦術の広まりは土佐、薩摩、仙台など、一部の地域に限られていました。その後、江志から天文を学んだ遠藤盛俊が、晩年の春海に学び、正徳四年(1714)には、渋川家に伝わる秘伝書を授かることとなります。獅山公治家記録には、この時のことが記されており、これによれば、仙台藩は渋川春海・昔尹父子に対して謝礼の品々を贈っています。秘伝の伝授が単に遠藤盛俊の私的な伝授ではなく、藩の理解があった上での出来事であったことが解ります。この後、遠藤盛俊は、藩の天文者になったとの記録もあり、藩が天文を受け入れて保護したことが読みとれます。

 さて、藩が天文をいち早く受け入れて保護してきた理由は、いったい何だったのでしょう?藩主を始め重臣たちが、みな同じように科学としての天文を理解して受け入れたなどとは、とても考えられません。

 実はこの頃、仙台の儒学者たちの多くが、京都の山崎闇斎を師として教えを受けていたのです。他藩の儒学者は、儒学のみを学んだのに対して、仙台の学者達は、闇斎が提唱した垂加神道も同時に学びました。彼らは仙台に戻り、藩の上層部にこれらの学問を伝えています。春海の学問は、土守(つもり・つつもり)神道と呼ばれていますが、これも垂加神道の影響を大きく受けた学問です。闇斎に学び、後に仙台を代表する儒学者となった遊佐木斎は、春海を評して「天地に通じていても、単なる技術である。しかし、春海は天地だけではなく人の道にも通じており、聖賢である。」と述べています。つまり、春海が人に通じる道を併せ持っていることを高く評価しているのです。
 仙台は科学としての天文を受け入れた訳ではなく、土守神道を受け入れたのでしょう。

 
 

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