青木長由(あおきながゆき) 仙台藩天文・数学者 |
寛文9年(1669)−元文5年(1740) |
| 理右衛門 理格と号す。 青木長由は戸板保佑の数学の師とされている人物ですが、戸板の自伝に記されている他は、あまりその素性は知られていません。青木は、遠藤盛俊と共に江志知辰の元で数学、暦術を学んでいましたが、いつの頃からか、両者は仲違いをするようになったようです。戸板には中西流の数学のほか、授時暦や貞享暦術も教えています。 (遠藤盛俊の)若い時は原町口屋敷杯にて、ぶちつまれ不行跡者也。天文者に成て而も新之丞先生を江戸より追下し、理右衛門先生の天文暦術に達したる事をそねみ、入間川市十郎を公儀の天文者に成し後、市十郎を以、理右衛門先生をどちめさせ、痛入たることども有る之。 |
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遠藤盛俊を知っている戸板の友人たちが話した内容で、青木・杼窪と遠藤・入間川との間に確執があったことが解ります。 結局、戸板は遠藤盛俊に入門する事により、藩の天文学者となりますが、青木が死ぬまで、戸板と共に観測を行っていたことが記されています。青木は月食の観測を主に伊勢堂山で観測を行ったとありますが、これは、現在の青葉区千代田町の伊勢神明社のことです。 |
| ■青木長由略歴 |
| 寛文9年(1669) 生まれる。 元禄14年(1701) 正月、江志知辰に算術・天文を学び免許を得る。(大日本数学史) 元禄15年(1702) 正月、江志知辰に算術・天文を学び免許を得る。(中西流数学系図) 正徳2年(1712) 2月岩崎道悦に免許。 正徳〜享保頃 京都、幸徳井家に見いだされ、暦正の号を賜る(?) 享保9年(1724) 2月20日 戸板保佑入門。算術・授時暦などを学ぶ。 千葉義太夫に免許。 享保10年(1725) 今野権右衛門に免許。 享保11年(1726) 正月14日 戸板に算法の免許。 享保16年(1731) 正月18日 御城当番■を命ぜられる。 5月 8日 戸板に貞享暦の免許。 5月16日 月食。伊勢山で観測。曇り。 享保20年(1735) 3月15日 月食6分半。伊勢山で観測。 元文4年(1739) 岩崎清右衛門秋房に免許。 元文5年(1740) 11月2日 病死。72才。 |
| ■師弟関係 |
| ┏━岩崎清右衛門秋房(元文4年免許) ┌─菊地久左衛門 ┃ | ┣━今野権右衛門(享保10年免許)────┴─真山久左衛門 ┃ ┣━渋谷助十郎知礼(亘理郡 伊達安房家中) ┃ ┣━岩崎道悦(正徳二年二月免許) ┃ <渋川春海>━━┳━江志知辰━┳━青木長由━━━╋━千葉義太夫(享保九年六月二十四日免許) (1639-1715) ┃(1649-1714) ┃ (1665-1740) ┃ 刈田郡平沢村 ┃ ▽ ┃ ┗━━━━━━┻━遠藤盛俊━━>┗━戸板保佑 (1672-1734) (1708-1784) |
| 岩崎清右衛門秋房:金ヶ崎の人。大町主計家中。免許と算額が現存。 今野権右衛門 :始め喜八、金太夫。格元。享保10年正月14日免許。 渋谷助十郎知礼 :亘理の人。格一。伊達安房家中。明和9年正月、芝愛宕に算額を奉納。 岩崎道悦 :市三郎。鯉泉軒直往。後為御茶首出奔ス。正徳2年2月免許。 千葉義太夫 :刈田郡平沢村、享保9年6月24日免許 |
| ■青木長由 資料 |
| ●アオキ・ナガユキ【青木長由】 和算家。通称、理右衛門。理格また冬邑軒と号す。中西流の算数を江志知辰に学び、悉くその秘奥を得たり、門人には戸板保佑、岩崎道悦等の名家を出し、仙台算学の大家なり。(仙台人物大辞書) ●昔、青木利右衛門京都の本締め役を勤む。この人算に達せり、ゆえに陰陽頭殿より召され算を見分せられその奇特を感して暦政の官を賜る。帰国して公に告す。私事なりとて誉められずとなり。(講書余談) ●青木利右衛門 京へ上がる時、幸徳井宮内少輔様へ出て、暦正の号など蒙りしとなり。(講書余談) ●(享保9年)二月二十日青木理右衛門先生を算の師とす。(一代記) ●(享保9年)夏六月に至て数学無残処窮也。於是先生免許出し玉んと云へり。自是又先生より天文暦術を学也。(一代記) ●(享保11年)正月十四日青木理左衛門より算法の印可を取也。此節、権右衛門事も一同に免許を取也。(一代記) ●享保十五年七月十八日 ●(享保16年)正月十八日青木理右衛門先生にて去年八月■地閉門被仰付候処、当正月十八日御免にて御城番支配に仰付候。是は先年御帑(かねぐら)肝入幸右衛門引負金之義に依て也。御会議も無之。不図も御付の事。(一代記) ●享保十六年正月十八日 ●(享保16年)五月八日理右衛門先生より貞享暦の免許を取る也。又享保暦を神文して習之。(一代記) ●享保十七年壬子五月十六日夜月食昏 ●享保二十年乙卯三月十五日清明之日 ●(元文5年)十一月二日夜昏後、青木理右衛門先生病死、年七十二歳、法名皈源性居士、北山永昌寺に葬る。(一代記) |