桜田虎門(さくらだこもん) 仙台藩儒学者 |
安永3年(1774)−天保10年(1839) |
| 広間番士 110石4斗 仙台藩を代表する儒学者。江戸麹渓書院服部善蔵の門人となり儒書を研究する。 理気鄙言 仙台桜田質仲文著 文政紀元新刻 教学書院蔵板 天象一覧図 仙台桜田質著 一条坦校 文政7年2月 教学書院蔵版 養賢堂の改革について、大槻平泉にと意見が対立。 「昊天図説」 桜田の著した「理気鄙言」に大塚静あての手紙が残されている。インターネットで「桜田虎門を検索すると、結構ヒットします。易、特に四柱推命学の世界では、なかなかの有名人です。でも、何故か長崎の医師とか、江戸の儒学者になっています。・・・仙台人です。 |
| 桜田虎門略歴 |
| 安永3年(1774) 生まれる。 寛政元年(1789) 堀田公の小姓として江戸にでる。 寛政2年(1790) 志村東嶼の門人となる。<東嶼:律暦兵法音韻数術、易数之説に長ける。> 寛政5年(1793) 2月、藤広則に天文・数学を学ぶ。 寛政6年(1794) 3月病気のため仙台に帰る。 寛政8年(1796) 1月江戸麹渓書院服部善蔵の門人 儒書の研究。 寛政10年(1798) 長崎に遊ぶ。 寛政12年(1800) 8月善蔵の死後、幕府より麹渓書院の教授に任ぜられる。 享和3年(1803) 1月病のため、教授をやめる。 8月養賢堂で教える。 文化元年(1804) 「理気鄙言」を著す。 文化4年(1807) 仙台藩より禄を与えられ、大番士・儒員となる。 文化7年(1810) 江戸藩邸に学舎・順造館を作る。このころから、大槻大泉と意見が対立。 文化9年(1821) 職を辞する。私塾を作る。 文化13年(1816) 「五行易指南」を著す。 天保2年(1831) 5月、教学書院を作る。 「推命書」を著す。 天保10年(1839) 10月3日、没する。 |
| <師弟関係> |
| 大塚頼充─┬──────>┌─志村弘強 ┌─桜田景行 (1732-1801) │ │ │ (1795-1864) └─志村東嶼──┤ ├ 一条正直 (1752-1802) ▽ │ (歌人:1805‐1888) 藤広則 ─┼──桜田虎門 ──┼─若林靖亭(儒学者) (1748-1807) │ (1774‐1839) │ (1799-1867) 服部善蔵 ─┘ ├─金忠輔(儒学者) │ ├─増田主計(儒学者)┌─堀武次 │ (1791-1838) │ ├─大立目克明───┴─横沢周治 │ (1794-1848) └─河東田直正 (1791-1841) |
| サクラダ・キンサイ【櫻田欽齋】儒者。名は景質、字は仲文、通稱周輔、一に虎門また鼓缶子と号す、初め藩儒志村東嶼に従ひ、後ち江戸に出でゝ服部粟齋を師とす、粟齋夙に麹渓書院を設け、道學文章を以て當世に名あり欽齋の學術文章を愛し、挙げて書院の指南となす、是に於て名声籍甚、従ひて遊ぶもの雲の如し、齊義公之を聞き、召して藩の儒員に挙ぐ、欽齋乃ち請ひて江戸順造館を創め、之が督學となる、後ち仙豪に帰りて養賢堂指南役となり、盛に麹渓道學を鼓吹し、弟子大に進む、時に大槻平泉養賢堂學頭となりて學制を定む、甚だ欽齋の意に満たざるものあり、因りて屡々上疏する所あり、終に有司の忌諱に触れて斥けられ、悒々とし楽まず、爲に病と称して退隠し、著述自ら力む、欽齋経史百家を貫穿し、詩文に卓絶し、其の学問の該博なる?輩能く及ぷものなし、著書数百巻、就中、四書摘疏四十巻、近思録摘説十四巻、詩識名十二巻、経世談十巻、五行易指南十巻等尤も世に行はる、傍ら天文、兵法、馬術に通ず、叉小野蘭山に就きて本草を學ぴ、造詣頗る深し、天保十年十月三日没す、享年六十六、仙臺新寺小路阿彌陀寺に葬る。 |
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