佐竹義根(さたけよしね)仙台藩天文者 |
元禄2年(1689)−明和4年(1767) |
| 佐竹義根の人物像については、あまり資料が残されていません。天文家として名を残していたため、従来は天文学者と捉えられて来ましたが、渋川春海から続く”土守神道”を継承して、神道家として活躍したということが解ってきました。 義根は、元禄2年閏正月3日磐井郡に生まれ、始めは長倉九吉源義海を名乗っていましたが、享保の終わり頃から佐竹義根と名乗り、春山、秋水、尾斉などの号をもっていました。義根の家柄は、常磐地方を治めていた佐竹一族の末裔でもあります。 佐竹行義―┬―貞義・・・・秋田佐竹氏へ続く ・・・・佐竹義康――佐竹成義――長倉義敬――長倉(佐竹)義根―┬―新三郎 |
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| 父の長倉一平義敬は佐々木志津磨の門人で書の達人であり、義根も書道が上手であったそうです。 遠藤盛俊、渋川敬也(入間川)に従って、渋川流の天文・神道・兵学を学びました。遠藤没後の元文四年に土御門泰邦へ書状を送り、門人となることを許され、天文生に挙げられました。さらに、天文・兵法・神道を多くの門人に教授することも認められました。明和4年閏9月20日に80才(79?)で亡くなり、仙台元寺小路光圓寺に葬られていますが、現在その墓は残っていません。佐竹の名前は芦東山の日記や書状に、たびたび登場し、『佐竹九吉実母拙者親族・・・』とあることから芦とは親戚関係にあったと思われます。 |
| 佐竹義根年表 |
| 元禄2年(1689) 磐井郡に生まれる。 享保5年(1720) 11月16日,遠藤盛俊の門人となる。 享保8年(1723) 小泉周安と共に「二忠一言」を著す。 享保12年(1727) 遠藤と書状のやり取り。 享保18年(1733) 9月24日、父の一平が亡くなる。(68) 元文4年(1739) 春海先生実記を完成させる。 土御門泰邦に書状を送り、門人となる 元文5年(1740) 天文生になる。 寛保元年(1741) 殿村晴辰、門人となる。 門人の遠藤信近没する。統伝を高野に。 延享2年(1745) 九月四日、西磐井郡の肝入寺崎清慶から提出された葛西氏の系図を調べる。 寛延1年(1748) この頃より、芦東山と書状の交換を行う。 この頃、松島に住む。 寛延3年(1750) 芦に天文図解5冊、天文図2幅を貸す 寛延4年(1751) 安家天文道 土金極秘伝なる。(桜田) 宝暦3年(1753) 門人の伊達将監没する。 宝暦の改暦に招かれえるが、病気のため上京せず。 宝暦8年(1758) 御城番支配御免 門人の高野兼良没する。統伝を大塚に。 宝暦9年(1759) 配志和神社の祭典を行う 閏7月23日、芦東山と書状を交わす。 宝暦13年(1763) 磐井郡の風土記の編纂 明和3年(1766) 桜田伝右衛門、殿村右衛門太、高橋通三へ一貫許状 明和4年(1767) 閏9月20日没。80才(79?)。 |
| 師弟関係 |
| ┏━遠藤信近(1705-1741) ┃ ┃ 遠藤盛俊 ━━┓ ┣━殿村晴辰(生没年不詳) (1762-1734) ┃ ┃ ┃ ┃ 入間川重恒━━┻━佐竹義根━╋━橋本治正(1729−1804) (1688-1727) (1689-1768) ┃ ┣━桜田利慶( −1795) ┃ ┣━高野兼良(1708-1758) ┃ ┣━沢木員壽(生没年不詳)・・・・・・沢木員昆(?) ┃ ┣━矢口定信(生没年不詳) ┃ 参考資料 仙台人物大辞書 ┣━高橋通三( ? -1775?) 仙台金石志 ┃ 青木氏私信 ┣━大塚頼充(1732-1801) 宮城県史12 ┃ ┣━穴沢篤信(1701-1784) ┃ (米沢藩士:春岳) ┃ ┣━佐藤(米沢藩士) ┃ ┣━高田定四郎慈延(仙台藩鋳物師) ┃ ┣━伊達将監(春敬)(1713‐1753) ┃ ┗━別所実有 --- 工藤平助 ─┬─林子平 (1721-1772) (1733-1800) |(1738-1797) | └─大槻玄沢 (1758-1827) |
| サタケ・ヨシネ【佐竹義根】 天文家。通称九吉、始め長倉義海と称す、春山、秋水または尾斎と号す。父は長倉一平、佐々木志津磨に従って書を善くす、義根家学を承けて書道に堪能なり。又、遠藤衛久、渋川敬也に従って安家の天文及び神道兵学を学び、能く其の事に通じ、天文生に挙げられ、従遊者頗る多し、明和四年閏九月二十日没す、享年八十、仙台元寺小路光圓寺に葬る。ナガクラ・モトシキ【長倉基式】 藩士。通称九吉、享保八年二月同僚小泉持春(周安)と書を吉村公に上りて大に藩政の弛廃を嘆じ、藩士多くは酒宴遊興に耽りて学問武芸を事とせざる事を痛論す。 |
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