志村恒憲(しむらこうけん)仙台藩数学・天文学者 |
文政8年(1825)−明治31年(1898) |
| 晋平。北台。茂斎 武田司馬の高弟で将輔と称する。諱は恒憲。幼い頃から数学が好きで、武田保勝没後の仙台天文家を村田明哲と共に支えていきました。東北大学には志村恒憲の記した天文の資料が数多く残されています。維新後は、家塾を開いて多くの門人を育てたほか、仙台知類小学校の初代首席教員となっています。 仙台人名大辞書では、明治31年76歳で亡くなった(文政6年生まれ)とありますが、本人の記録によれば文政8年生まれであることがわかった。(H19.6.11) |
| ■志村恒憲年表 |
| 文化2年
1805 2月2日 小田原志村家火事 文化2年 1805 6月12日 藤彦六郎より米櫃贈られる 文政8年(1825) 生まれる。 弘化3年(1846) 「授時暦推歩」 嘉永元年 1848 5月 武田より関流免許 嘉永3年 1850 4月28日 土御門家より測量を仰せつかる 嘉永3年 1850 7月11日 村田の天文量手伝役に推挙 5ヶ年 嘉永3年 1850 11月15日 志村将輔 村田の天文測量手伝役 嘉永3年(1850) 〜明治11年「自分手控」 藩の天文方手伝に任命される。 嘉永4年 1851 2月8日 算取り役に推挙 嘉永4年 1851 4月18日 武田司馬方算取り役 嘉永5年(1852) このころ武田司馬より、北極高度考の講義を受ける。30才。 「嘉永五年壬子推五月十四日望月食」の推歩 「嘉永六年癸丑二十四定気推草」の推歩 「文久二年歳次壬戌十月十五日月帯食」 嘉永6年 1853 10月19日 天文道稽古人并七曜暦合算法 村田の弟子 嘉永7年 1854 11月17日 紅毛暦術稽古 安政元年 1854 11月 紅毛暦術稽古を命ぜられる 安政2年 1855 2月1日 天文稽古人・写本暦刊行方 安政2年(1855) 「暦日定規並賀子蔵否伝」を写す。 安政3年(1856) 「運気造」 安政3年 1856 10月23日 軍艦方御用仰せつけ 安政3年 1856 10月23日 天文暦道伝授免許 安政3年 1856 6月3日 伊東に算法免許を与える 安政3〜4年 天文方として洋式軍艦(開成丸)の建造に携わる。 安政4年 1857 5月3日 天文道七曜暦合算法皆伝・銀子壱枚拝領 安政4年 1857 7月3日 8月より天文方御用 安政5年(1858) 佐藤長修・志村恒憲「太陰出入時刻草稿」 安政5年 1858 1月11日 村田より紅毛暦術免許 安政5年 1858 1月13日 養賢堂天度御業立航海術御用 安政5年 1858 4月27日 神文のこと 安政5年 1858 9月4日 考治郎に免許状を出す 安政6年 1859 1月7日 土御門家の直弟 安政6年(1859) 11月「寛政暦」の訓点。土御門晴雄の奥書。 安政7年 1860 4月28日 寛政暦消長法仰付 万延元年 1860 6月15日 神文のこと 文久2年 1862 9月7日 自宅に観測所・赤道儀を設ける 文久2年 1862 10月8日 観測所完成 文久2年(1862) 〜元治元年(1864)「晴雨日記」(?) 文久2年 1862 10月8日 桂島銀之助 18 志村将輔の測量手伝い役に7年間 (古山の天文門弟、佐藤久之助より中西流免許) 文久3年 1863 10月17日 大友慶治 37 志村の天文測量方手伝い役(村田の門弟) 文久3年 1863 2月9日 蝦夷地暦推歩御用 文久3年 1863 5月28日 御番入り 元治元年 1864 8月18日 大槻慶一郎 志村方天文測量手伝 慶応元年 1865 8月23日 蝦夷地暦推歩考御用 慶応4年 1868 志村恒徳没する 明治6年(1873) 仙台知類小学校(上杉山通小)の初代首席教員。仮教員 明治 家塾を開き、門人を育てる。 明治23年(1890) 「仙台算家由来書」を著す。 明治31年(1898) 1月17日没。享年76才。(文政6年生まれとなるが、本人の書き上げでは文政8年生まれ) |
| ■志村恒憲師弟関係 |
| 秋保盛弁──┐ ┌─ 伊東騏平大順 |
| シムラ・シンペー【志村晋平】和算家。通称将輔、諱は恒憲、幼より算数の術を善くし家塾を開きて教授す、門人頗る多し、仙臺知類小學校(今の上杉山通小學校の前身)初代の首席教員なり。和算に関する著書数部あり。明治三十一年一月十七日没す。享年七十六。仙台北山町称安寺に葬る。 シムラ・コーケー【志村恒敬】教育家。通称文輔、官立宮城師範學校卒業後仙臺知類小學校(大仏前にあり、三番小學校と稱す、後ち外記丁小學校となり今上杉山通小學校と云ふ)の初代校長たり、後年函館縣學務課長に任じ師範學校長心得を兼ぬ、晩年宮城縣技手となり測量を掌る、大正十一年二月一日没す享年六十九、仙台北山町称安寺に葬る。 |