武田司馬(たけだしば) 仙台藩天文学者 |
寛政9年(1797)−嘉永6年(1853) |
| 天文暦道を秋保盛弁(藤広則の高弟)に、算数を松木清直(百合之助)に学んだ。天保13年の改暦の際、慶邦公の命により京都の土御門家に行き新暦法の伝授を願った。その後1年間、京都に留まり新暦法を習得した。土御門家はその功績を大いに讃え、帰国の際に測量垂揺儀一基と一絃琴を賜った。保勝はこれを慶邦公に献上し、永く伊達家天文局の備品とした。天文局に新製の測器設置に際し、保勝は仙台北極高度・西経仙台距経度を測定し、将来の諸測の根拠とする。その値は以下の通りである。 仙台北極出地高度 38度16分46秒小余92 |
![]() |
| 武田保勝は1853年57才で亡くなっています。これより、生まれたのは寛政9年(1797)であることがわかります。ちょうど寛政の改暦が行われた年であり、伊能忠敬が幕府天文方の高橋至時に入門し、測量のための知識を蓄えつつある時代でした。 寛政暦は西洋の天文学を導入したものの、惑星に関して不完全な部分が多く、完成された暦とは言えませんでした。従って、寛政以後の天文学者は、西洋天文学の研究、つまり、ケプラーの法則など楕円に関する研究が多く行われていたようです。保勝の著作には、「算法側円全書」「側円解一名覚夢算法」等、楕円に関するものが多いのも、このような理由からでしょう。 さて、碑文には天保13年(1842年)京都の土御門家に出向いて、天保暦を伝授されたとあります。しかし、土御門家は幕府の作った天保暦を承認するだけの立場でしたので、保勝が新暦法を教えてもらったということは考え難いことです。また、功績を称え、品々をもらった事、保勝は楕円の研究を得意としていた事などから、保勝は土御門家に仕えていた真元流の数学者と共に天保暦の研究を行ったのでしょう。 武田保勝の著書:「数理探玄」「平方零約術付録」「剰一術・月肉一術・翦管術」 「五星伏見距日黄道度表」「暦日定規・賀子蔵否伝」「交食規範」 「仙台北極高度考」「嘉永三年・晴雨考」「嘉永六年・晴雨考」 □武田保勝の給料□ 仙台業書第六巻「仙台府諸士版籍中・下」(仙台郷土史研究によれば、天保5〜10年頃のもの)の中に武田保勝の月俸が、「小判三両四人分」とあります。仙台郷土史研究によれば1両は5.72石に相当、一人分は4.5石に相当とありますので、これより武田保勝は35石相当をもらい受けていた事がわかります。ちなみに、戸板保佑は150石の禄を受けていますが、これは特別で、保勝は学者としては標準的な禄を受けていたようです。 新暦五星百算表 武田保勝改算、橋本貞恒・内池行孝校(慶応4年志村写?) |
| 武田保勝年表 |
| 寛政9年(1797) 生まれる。 文化後期 松木百合之助に数学(中西・関流)を学ぶ。 文政4年(1821) 「暦日定規並賀子蔵否伝」を改正する 文政10年(1827) (以前?)推算貞享暦術書(一条坦編、武田保勝・千葉胤晴校:早大) 文政11年(1828) 南寛定の「題術遺編」の序文に伊藤兼里、早井、武田とある。 文政13年(1830) 『平方零約術付録』を著す。 天保元年(1830) 天文方稽古人になる。 天保8年(1837) 斎藤勝明、入門。 「新暦交食規範」を著す。 天保9年(1838) 門人が虚空蔵堂に算額を奉納。42才。伊藤隷尾 小西安貞 佐藤重行 天保11年(1840) 天文暦術の練達により賞され、番外士(乱舞)より大番組に進む。 天文方御用となり、学資を賜る。 天保12年(1841) 8月末、長谷川弘閲/山本賀前編「算法助術」の序文を書く 天保13年(1842) 天保の改暦にあたり、京都の土御門家へ。46才。 天保14年(1843) 京都より戻る。47才。 「太陰出入方位略」 弘化3年(1846) 「覚夢算法」を著す。 嘉永2年(1849) 4月、土御門家より暦法を伝授される。 「嘉永3年晴雨考」を著す。掌天学士。53才。 嘉永4年(1851) 「嘉永5年晴雨考」を著す。54才。 嘉永5年(1852) 象限儀を使い仙台の緯度経度を測る。 「仙台北極高度考」「嘉永6年晴雨考」を著す。56才。 嘉永6年(1853) 9月4日死す。享年57才。仙台通町東昌寺に葬る。 |
| □師弟関係□ |
| ┌─村田明哲(1816-1878) |
| タケタ・シバ【武田司馬】天文家。諱は保勝、天文暦道を秋保盛弁に、算数を松木清直に學ぴ、並に其の蘊奥を極む、天保十三年改暦の際慶邦公の命を奉じて京師に上り、土御門家に就て新暦法の傳を請ふ、故に同家に留まること一年、日夜勉励措かず、盡く傳法を得たり、同家大に其の功を賞し帰國の時測量垂揺球一基及び一絃琴を賜ふ、司馬帰りて之を公に献じ、永く伊達家天文局の備となす、天文局に新製の測器設置に際し、司馬親ら仙臺北極高度西経仙臺距経度を測定し、以て将来諸測の根拠となす、即ち左の如し 武田保勝測量 仙台北極出地高度 三十八度一十六分 四十六秒小余九二 同 西京距経度束 五度三十六分五十 七秒小余六 嘉永六年九月四日没す、享年五十七、仙台通町東昌寺に葬る。(碑文) |