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路徳風(やまじよしつぐ) 仙台藩士次男・天文方山路家養子

宝暦11年(1761)−文化7年(1810)

 
 宝暦11年(1761)生まれ。文化7年(1810)1月27日没。享年50才。

  江戸中谷大泉寺に葬る。本姓、平。始め小倉氏。通称、才助。
  陸前仙台の小倉助左衛門雅久の次男。母、湯本文十郎輝胤の女。
  
山路之徽の養子。山路之徽は作暦御用を勤めた後、評定所儒者。
  徳風には四人の女の子と金之丞、後の諧孝がいる。

 50才の若さで亡くなった山路之徽には後継ぎがいませんでした。そこで、徳風が養子となりましたが、もともと陸前仙台の小倉助左衛門雅久の次男で、母は湯本文十郎輝胤の女とありますので、仙台藩の関係者でした。本姓、平。始め小倉氏、通称は才助とあります。小倉才助という名前だったのでしょう。徳風は宝暦11年(1761)に生まれていますから、山路之徽が死んで才助が跡目を継いだのは、18才の時と言うことになります。山路徳風がいつ山路家の養子になったかについての資料は残されていません。
 この頃は、戸板、船山らが山路之徽とともに、算学書の編纂に忙しかった時期です。才助は戸板保佑晩年の弟子か、藤広則、あるいは船山か山路の弟子と考えられますが、戸板や藤の記録には才助の名前はないので。おそらく船山と共に山路之徽の弟子であり、船山が後見となり山路家属員となったのでしょう。

  と、勝手に想像していたら、小倉助左衛門雅久が山路主住の弟子でしたw(暦算史料:東北大学附属図書館蔵) 小倉雅久は、「初名●伴幕府の与力たり。致仕して文怒と号す」とあります。

 

正月晦日に之徽が死んだあと、約2ヶ月後の4月8日には跡目を継いで小普請役になっています。才助が養子になってすぐに之徽が死んだのでしょうか、あるいは之徽が死んでから養子になったのかも知れません。

 山路徳風は、文化7年(1810)1月27日、享年50才で亡くなっており、江戸中谷大泉寺に葬られています。明治時代の史論家・山路愛山は徳風のひ孫にあたります。

  
山路徳風年表
 
  宝暦11年(1761) 陸前仙台・小倉助左衛門雅久の次男として生まれる。
  安永7年(1778) 4月8日養父の跡目を継ぎ小普請組になる。(18)
  安永9年(1780) 12月22日将軍徳川家治に拝謁。
  天明2年(1782) 浅草頒暦所
  天明8年(1788) 養父の遺志を継いで役立てたいと申し出る。
  寛政2年(1790) 8月8日天文方になる。9月船山暦局へ。
          「地度測量法」を著す。
  寛政3年(1791) 12月29日西洋暦法で七曜暦を作成。
  寛政4年(1792) 11月28日「興端暦書」の献上
          崇禎暦書御試暦考成御用を命じられる
          「寛政五年癸丑七政暦」
  寛政5年(1793) 2月18日試暦献上。
          12月暦作助手を募る。土佐の細川半蔵ら。
  寛政4年(1794) 5月5日山路・吉田蘭人と会う。
  寛政8年(1796) 8月5日改暦御用を命じられ、上京して改暦事業に加わる。
  寛政9年(1797) 12月4日帰府。26日金5枚賜る。
  文化7年(1810) 1月27日没。
江戸谷中大泉寺に葬る。
 
師弟関係
 


   
船山輔之?─┐            ┌─船山左直輔英──船山左司馬
         |            |
   
山路之徽──┴─小倉才助(山路徳風)─┼─山路諧孝―――山路彰常
                      |
                      ├―小澤政敏
                      |
                      └―岡崎彦次郎


         
   
  

  

<著作>寛政5年癸丑七政暦 諸角径術(寛政11年) 新暦法稿 地度測量法(寛政2年)
    二都実測消長法 暦法新書編

  参考 天文方代々記 
    ☆寛政重修諸家譜   第20巻 
     明治前日本数学史       
    ☆国史大辞典             

  

  

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