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こよみについて



−暦をつくっていた人− 土御門家の歴史




天文方ができる以前の暦は、朝廷の土御門家・幸徳井家で作られていました。
土御門家は、安倍清明以来続く陰陽道の家柄で、
代々、幸徳井家とともに暦の制作にたずさわっていました。

貞享の改暦以後は、暦の編集を一手に引き受けました。
幕府天文方で暦の計算を行い、幸徳井家で吉凶を占い、
各地の板元で印刷・販売が行われており、これらをたばねるのが土御門家でした。

また、土御門家は暦の制作に関する認可権を持っていたほか、
天文学者の認定や神道の免許を授与する際には”天文生”と呼ばれる称号をあたえていました



安倍晴明と天文道の大家のはじまり





平安時代に、賀茂忠行(かものただゆき)という、大変すぐれた陰陽師がおりました。忠行の子の保憲(やすのり)も、すぐれた陰陽師で、賀茂家は陰陽道の大家として世間に知られるようになりました。
その賀茂忠行に、幼いころ才能を見出されて入門した一人の少年がいました。安倍童子。のちに晴明と名乗るようになります。この人物が陰陽師、安倍晴明です。

晴明についてその祖先は大化改新の際、左大臣になった倉橋麻呂があり、平安初期には参議左中将兄雄が出てその子淡路守春材、春材の子大膳大夫益材と続き、益材(ますき)の子が晴明です。
このように、祖父の代より下層官僚の家筋でした。

陰陽家賀茂忠行・保憲父子について陰陽の道を学び、天文道を伝えられました。従四位下、天文博士、大膳大夫、左京大夫、穀倉院別当、播磨守等を歴任し、従四位下まで進んだ晴明は、この道に通じ、古今独歩といわれた陰陽家です。

賀茂保憲には光栄(みつよし)という秀才の子息がいて、これも従四位下、暦博士、陰陽博士、大炊助、右京権大夫等を歴任しました。そこで保憲は従来伝えてきた暦・天文両職を分かち、。自分の息子である光栄には暦道を、晴明には天文道の奥義を伝えることになり、賀茂・安倍両氏による暦・天文両道の支配体制は、全盛期の道長を中心とする藤原摂関政治体制の下で確立しました。

晴明の子吉平、晴明五世の孫の泰親等も、よく家道をついで、その名も高かったようです。安倍家の子孫は天文博士、陰陽博士、陰陽頭等の職につくものが多く、天文博士と天文密奏のことは、安倍家が独占しました。この後、陰陽道は実力主義ではなく世襲制になったため、暦道は賀茂家、天文道は安倍家が独占し、おのおの一族だけで代々担われていくようになります。陰陽道は秘伝の技として他の人々には伝えられませんでした。以後天文道は安倍家が世襲することになります。


晴明が亡くなったのは、寛弘2年(1005年)(85歳とも、77歳ともいわれておりますが、よくわかりません。)で、その墓は京都市の東福寺門前遺迎院の竹林中にあるといい伝えられています。

彼は賀茂川が毎年氾濫するので呪法をもって水を涸れさせ、呪法を修した五条橋の北に法城寺を建立しました。寺号は「法」すなわち水を去り、「城」すなわち土になるの意で、真言僧が住職になりました。晴明没後、ここに葬られたところ、梅雨の水害で晴明の墓を三条橋の東へ移し、さらに東福寺の門前へ改葬したものである、と江戸期の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』に述べられています。



律令国家と陰陽道





清明には、吉平(よしひら)と吉昌(よしまさ)という2人の息子がいました。吉平が陰陽助・主計頭・陰陽博士・従四位上、吉平の弟、吉昌が陰陽助・天文博士・正五位下、吉平の子、章親が安倍氏としてはじめて陰陽頭につき,天文博士・正五位下に任じました。

後に吉平の子供たちが陰陽寮のなかで大きな力を持ち、優秀な陰陽師がつぎつぎに誕生していきます。こうして賀茂・安倍両氏の陰陽道宗家としての伝統は確立し、摂関家その他の公家や後宮に奉仕することによって、その権威が維持されました。

その奉仕の一つとして暦の作成があります。暦といっても、季節や日の吉凶、陰陽道的禁忌(タブー)などを注記した具注暦が求められたのでした。

律令制度では中務省官下の陰陽寮で暦博士が造り、11月1日までに新年の暦を調進し、そのため宮廷では御暦奏と呼ばれる行事があります。奈良時代より造られ、天平元年(729年)遠近国城山遺跡から断簡で出土したものが、実物として最古のものといわれています。

日本の陰陽道は律令国家の成立と共に官僚機構のなかに組み込まれ、公的活動を本来使命としましたが、平安朝の公家専制化では宮廷陰陽道として貴族に対する私的奉仕が多くなり、さまざまな弊害を生じて、政治の道徳や健全さが失われていく様子に拍車をかけました。
律令制では陰陽道はすべて国家が役目の権限によってつかさどるものであって、個人が勝手に利用することは禁ぜられ、みだりに天文を観て国家社会の未来を論じ人を迷わし、あるいは天文観測やト占の器具ならびにそれに関する図書を私有することを許しませんでした。

平安朝に入ると、陰陽家は政治上の権力闘争に巻き込まれる危険が増え、公家貴族は闘争の激化につれてト占にほんろうされる者が目立ってきました。
(摂関全盛期、道長を怨んだ左大臣顕光が、道摩法師を使って呪咀(じゅそ)させた話は『宇治拾遺物語』にもあります)

院政がはじまって公家社会に動揺が起りだすと、この情勢はいよいよ著しくなりました。白河上皇が造寺・造像・法会開催・熊野詣をはじめとする寺社参詣を通して自分勝手にぜいたくな生活にあけくれた中で、陰陽道の禁忌・ト占に積極的な興味を示しました。陰陽家以外の知識人の活動がこれに乗じて陰陽道的ムードをあおりたて、陰陽家はむしろこれにあとから従いつつ、互いに仲間同士のせり合いを激化させていくようになります。

さらに陰陽家は宮中だけではなく鎌倉幕府からもたよりにされるようになります。



南北朝時代と室町時代




南北朝時代になると安倍家は土御門(つちみかど)と名乗るようになります。

天文のはじめ(1532年)土御門氏では有春が陰陽頭、同十年頃からはその子有脩(ありなが)があとを継ぎましたが、二人とも所領の若狭国名田庄に隠棲すること(いんせい:世間から離れて、ひっそりと暮らすこと)が多く、天文十一年正月には二月の薬始の日次を勘申するのに陰陽頭が不在であったので、朝廷では勘解由小路在富に代行させたのでした。
しかし、在富には後継者がありませんでした。(詳しくは幸徳井家の歴史へ)


室町時代の後期で16世紀の有宣の頃、賀茂家の後継者が絶えたために、賀茂家がつとめていた暦道を土御門家で一時兼ね、有春のときから泰重に至る4代にわたってつとめるようになります。泰重のときに、幸徳井友景を陰陽頭に任命して陰陽頭を辞しまたが、孫の泰福が再び陰陽頭になってからは、(一度宝暦改暦の後に陰陽頭を幸徳井保ロに譲ったことを除いて)幕末まで及びました。

土御門氏では所領からの地子銭が上がらず、山科言継に武家方へ申し入れて善処してもらうよう依頼し、また禁中恒例の年頭御身固(みがため)御祈が途絶えてしまっているので、その復活についても言継を通じて朝廷に訴えていました。こうして土御門氏は言継の世話になることが多かったため、今度は言継から有春に対し、天皇の命を奉じて暦道再興に尽力するよういわれます。
その結果、有春は次男在高に賀茂氏を継がせることになます。しかし在高はまだ13歳でしたので、父の有春が後見となり、長男の有脩とともに実質的に宮廷陰陽道は土御門氏の支配になりました。

しかし暦道はなんといっても賀茂氏の専門で、有春・有脩・在高とも馴れず、永禄十一年8月と9月、暦に月蝕と記したのがともにはずれ、禁中から言継を通じて有春にお尋ねがありました。蝕の本書を持たないので有脩・在高の所持する本と校合し、「来年の有無を決めたい、もしこれがはずれたら一身相果てる覚悟です」と悲壮な決意を表明したほどでしたが、翌年有春は他界し、その子有脩も約8年後に世を去り、その子の久脩(ひさなが)は14歳で陰陽頭になりました。


土御門家の没落とその所領




久脩は関白秀次のために行った陰陽道的活動がわざわいして豊臣秀吉の怒りを買い、尾張へ流罪になってしまいます。事実上、平安朝以来の宮廷陰陽道はここで壊滅してしまいます。
このとき土御門家が所有した数々の貴重な文献記録類、さらには在富から引き継いだであろう賀茂家累代の記録類も、大むね散逸(さんいつ:まとまっていた書物・文献などが散り失せて所在がわからなくなってしまうこと)したものといわれています。
中国から伝わり、何百年も宮廷陰陽道の典拠となった『新撰陰陽書』などが今日のこっていないのも、このときの事変の影響によるものと考えられています。


関が原合戦で豊臣方の没落が決定的となりますと、久脩は京都に戻って出仕することが許され、徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡かいで村、同寺戸村、同国葛野郡梅小路村、同西院村、同国紀伊郡吉祥院村で合計百七十七石六斗を宛行われ、ようやく立直ることができました。しかしそれは、徳川幕府藩体制の中でかろうじてその形骸が維持されただけで、大多数の典籍をはじめ、資料を失った上は、とても古代の神技名人ともてはやされた晴明や泰親の時代の陰陽道にもどることは望むべくもありませんでした。


泰福は天和3年(1683)9月25日、勅許により諸国の陰陽師をその支配下に治めることになりました。これより土御門家は全国の陰陽師を統括して陰陽師の免許の権を握ることになり、その数は数万人におよんだといいます。

陰陽師は吉凶褐福を占い、祈祷符呪等をおこないますが、暦道に関することもその取り扱いの一つで、陰陽師で暦をつくり頒行するものもいました。しかし陰陽師管轄の権が与えられると、頒暦のことも土御門の支配に属することになりました。
貞享の改暦で編暦のことは幕府天文方に移りましたが、年々告朔の儀式、革暦の儀の執行は京都陰陽頭の職でしたので、貞享改暦以後、改暦の儀式に関しては、陰陽頭に任じた土御門家(安倍家)が司りました。

人物紹介・・・ 山科言継(やましな-ときつぐ) 1507-1579  室町末期の廷臣。権大納言。有職故実に通じ、また内蔵頭と御厨子所別当として当時の皇室経済に尽力。日記「言継卿記」がある

 大辞林(国語辞典)より

近世陰陽道宗家の復興




久脩の京都還(かん)住にともなって、以前土御門氏に仕えた人々が摂津・河内より集まって彼をたすけました。これを一括して旧組といい、久脩が若狭で養成して連れてきた配下を新組と呼び、両組合わせてこれを歴代組と名づけます。その中には総目付役・横目付役・触頭・組頭・小頭の階級がつくられ、組のものは家筋について控や慎方(つつしみかた)の規定があって、きびしい統率が行われました。

久脩は織田信長の弟民部の娘を妻として泰重を、家女房の腹に泰吉をもうけましたが、泰吉は慶長十七年(1612年)別家を許され、倉橋氏を名乗り、京都西南の郊外、寺戸・唐橋両村で百五十石を給せられました。

泰重の子孫は土御門氏をついで代々陰陽頭につき、泰吉の子孫は倉橋氏を継いで陰陽助となっていました。
泰重は賀茂氏再興をはかり、賀茂氏の一族で南都幸町に住んでいた幸徳井氏を起用し、友景に陰陽頭の地位を譲り、友種・友傳(ともすけ)と陰陽頭をうけついだあと、また泰重の孫、泰福が頭に就きました。天和三年(1683年)5月、諸国陰陽道支配を土御門氏に仰せ付けられる旨の霊元天皇の綸旨(りんし:天子などの命令)が下り、これより土御門氏は全国の陰陽師を統括し、免許を与える権限を握ったのでした。そして造暦のことも同家の支配に帰しました。


そして土御門神道が成立します

土御門神道とは

江戸時代に入り、安倍泰富(やすとみ)によって山崎闇斎(やまざきあんさい)の垂加神道(すいかしんどう)が取り入れられ、泰山府君祭(たいざんふくんさい)など百数十種類もの特殊な神事を行う「安家神道」とよばれる神道一派がつくられました。
こののち、冷泉天皇より天社の号を受けて「天社土御門神道」ができあがります。     
参考図書(異界vol・1陰陽道)





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