仙台藩の日食古記録 |
![]() |
寛正元年(1460) ●七月朔日一日一夜闇ニなりて人民大ニ驚く 恐らく日食の記述だと思われます。この日、仙台では食分0.97の日食が起こりました。江戸付近では皆既食となった日食でした。このため、人々が驚いたのでしょう。(暦面裡書) |
| 享保15年 | ●六月朔日日蝕八分(阿部家) ●同十五年庚戌六月朔日 日食七分半 初虧凡未初一刻 食甚凡申初一刻 復円凡申正二刻 起ニ於西北一甚於西南一復二於東南一 以二日時斗一所レ測是大率ノ而已 |
| 享保16年 | 同年十二月朔日日食 此ノ日曇リ且ツ雨フリ不レ見 |
| 享保二十年 | 同年九月朔日日食九分半 初虧巳初三刻七十八分 起於西 食甚午初々刻九十一分 甚於正南 復円午正二刻二十一分 復於東 定用分五百四十七分 食甚定分四千六百七十四分 陽?交前之食也或曰於江戸所レ見此 食甚於北然則交後陰?也蓋依土地 所レ見不レ同或有皆既之国手食甚之時 太白星見随レ復而星光消太陽在赤道ノ 南八度九十四分 |
| 元文5年 | ●十一月朔日日帯触五分かけながら出る(阿部家) ●同年十一月朔日朝日帯食四分計至明半時而復円 |
| 寛保二年 | ●同年五月朔日日食凡九分半余 此朝雖レ白ムルト宇宙明也自五時漸昏且草葉勺黄色而後頓暗黒如レ夜或曰此時撃テリト孝勝寺ノ四鐘也 或曰自地蔵堂窺之暗黒之内一所薄明ニメ日象少間見如小於二日ノ月ヨリモ而曲タルノ鉄ノ火箸ヲ之状ノ東北方有微光按ルニ是見食甚之前ヲ者也 首藤氏曰坤方微光アリ小ニ於二日之月ヨリモ也是レ見ル食甚ノ後者也 或ハ曰南方有二小光一凡一分計是見食甚者也 今野氏某居テ于胆沢郡六日入村窺レ之曰日食皆既雲間星見ルト是北方ハ即皆既ノ之 食不レ可レ疑也 |
| 寛保四年 | ●同年九月朔日日食四分 之日也(乃寒露) 初虧辰正二刻零九分起於正北 食甚巳初一刻五十六分 甚於東北 復円巳初三刻九十一分 復於甲方 太陽赤南五度三十三分 定用分二百九十九分 食甚定分三千九百〇六分 夜四十一刻四八四四 昼五十八刻五一六六 晨狼星午東一十三度八十九分 昏中星斗一十八度五十五分 |
| 延享1年1744 | ●九月朔日日食四分かけあり(備忘録) |
| 延享2年 | ●三月朔日日蝕二分(阿部家) ●延享二年乙丑三月朔日日食五分 |
| 延享三年 | ●同年二月朔日春分之日日食六分 初虧午正初刻二十六分〇二 食甚未初々刻七十一分六〇 復円未正一刻一十七分一七 初起於正西食甚於戌方復於正北 定用分四百六十二分二四 食甚太陽赤北空度六十二分 食甚定分五千四百八十九分 右以二定用分ハ与ヲ二食之方角一考レ之則食分蓋少二於六分一?又云此食亦遅二於貞享暦法一七刻計 ●日食(芦東山日記) |
| 延享4年 | ●七月朔日日帯触二分ばかりかけ乍ら入(阿部家) ●延享四年丁卯七月朔日日帯食 |
| 寛延4年(1751)
|
●5月朔日 日食二分 此様歩 品有之 日食二分巳初初刻正北巳初二刻甚巳正一刻復於東北食甚日テン昴八度三十四分右黄海子(戸板保佑)考也 伊勢江戸之暦日食ナシ仍湛水於盤窺之己初初二起己正一刻に復ス少しも相違ナシ 昼四ツ時少前より四ツ半前まで―巳初初刻より巳正初刻迄日食所見二分半三分位の食之。西北よりかけ初、北の方に復す。右日食当年の板行暦に無之は旧冬七曜暦を御前に指上る。茲(ここに)当五月朔日、日食有之段中止す。依之諸人以之?唱居候。朔日天上未能、而食不明に見へ申候。御衆人見え色々大きに世間にて唱ふる事。 (多植茂蕃一代記) ●朔日巳正一刻日食ニ分巳初初刻起正北巳初二刻甚巳正一刻復於東北食日テン昴八度三十四分 (芦東山日記) この日食の食分は仙台で0.13。頒暦などに日食の予報がありませんでした。戸板保佑は独自にこの日食を予報しており、実際とよく合っていたとあります。 ●寛延四年辛未五月朔日日食二分半 |
| 宝暦5年 | ●二月朔日 日帯触二分かけながら出る(阿部家記録) |
| 宝暦10年 | ●五月朔日月(ママ)帯触五分かけ乍ら入(阿部家記録) |
![]() |
宝暦13年(1763) ●9月朔日 日食推歩相違 (退隠記 欠本) 宝暦の改暦の失敗を露呈させた有名な日食です。仙台では大塚頼充、戸板保佑がこの日食の予報を行っています。しかし、宝暦13年の日記は欠本になっているので、表題のみが伝わっていますが内容はわかりません。 宝暦十三年癸未九月朔日日食六分半弱 ●日食四分初虧辰正四刻起西南巳初四刻甚於正南巳正四刻復於東南食甚佐竹九吉弟子大塚善右衛門高橋通三云る通り日食ス(芦東山日記) |
![]() |
明和4年(1767) 明和4年元旦に起こるはずの日食が起こりませんでした。これについて、戸板への質問と、戸板から寄せられた返答が書かれています。これだけ拡大してもぎりぎり太陽は欠けません・・・白い線が月の輪郭。江戸での食分は0.03という日食でした。 ●正月元日日食2分半あり(備忘録) ●明和四年丁亥正月朔日日食不レ験 |
| 明和5年1768 | ●12月1日日食2分半あり(備忘録) ●十二月朔日二分半此年より印(ママ)来る(阿部家記録) ●同年十二月朔日日食雪不レ見至二於午中前一而日象少見然復円ニ依レ之考レ之則自レ暦先ツコト凡三刻余也 |
| 明和7年1770 | ●5月1日日食皆既(備忘録) ●五月朔日日蝕皆既巳の五刻(阿部家記録) 明和七年庚寅五月朔日日食凡七分半 ●五月朔日 日食不見(芦東山日記) |
| 安永2年1773 | ●三月朔日日蝕三分半(阿部家記録) ●3月3分半日食アリ(備忘録) ●安永二年癸巳三月朔日日食四分 前日二月晦日春分也 陰雲前後不レ得二測量ヲ一也 初虧申初三刻一十六分 起於西北 食甚凡申正一刻六十一分 甚於正? 復円 陰雲 不レ見 太陽在赤道之北一度一十四分 |
| 安永3年1774 | ●八月朔日月(ママ)蝕五分(阿部家記録) ●8月1日日食5分かけあり(備忘録) ●安永三年甲午八月朔日 此ノ日白露晴天也 日食四分七十秒 初虧巳初一刻七十一分八七 食甚巳正一刻七十七分〇八 復末午初一刻八十二分二九 初起二於坤一甚二於正南少西ニ一復二於巳午之間一 太陽赤北六度六十六分 定用分四百二十一分八七五 |
| 安永4年1775 | ●八月朔日月(ママ)蝕七分(阿部家記録) ●8月1日日食7分かけもあり(備忘録) ●閏十二月朔日日触一分にみたず(阿部家記録) ●閏12月1日日食1分に見たず(備忘録) ●同年八月朔日日食七分半 初虧未初三刻六十五分 起於西北 食甚申初々刻五十二分 甚於正北 復末申正二刻二十八分 復於東北 定用分五百五十七分 太陽赤北十度〇七十五分 此日初虧前黒雲不レ正以二甚復一所レ校二定之一 ●同年閏十二月朔日日食空分六十秒 初虧午正一刻〇九分 食甚午正一刻八十二分 復末午正三刻二十五分 定用分一刻〇八分 午中太陽赤南二十度〇一十六分 |
| 天明4年1784 | ●七月朔日月(ママ)そく二分(阿部家記録) ●7月1日日食2分(備忘録) |
| 天明5年1785 | ●七月朔日月(ママ)そく六分(阿部家記録) ●7月1日日食6分(備忘録) |
![]() |
天明6年●正月朔日日蝕皆既午ノ一刻(阿部家記録) (1786年1月30日0時20分頃。この日食は食分0.99、一筋の光は残っていました。迫町では金環日食として見えていたはずです。時刻が記入されているのも、この記録だけですので、これは単なる暦の写しではなく、実際に観測した記録でしょう。 |
| 天明8年1788 | ●五月朔日月(ママ)帯そく一分かけ乍入(阿部家記録) ●5月1日日帯食(備忘録) |
| 寛政元年1789 | ●10月1日日食6分(備忘録) |
| 寛政6年1794 | ●12月1日日食9分余(備忘録) |
| 寛政7年1795 | ●12月1日日帯食(備忘録) |
| 寛政8年1796 | ●6月1日日食7分余(備忘録) |
| 文化5年1808 | ●10月1日日食2分半(備忘録) |
| 文化12年 | ●六月一日 日そく一分(阿部家記録) |
| 文政元年1818 | ●四月朔日月(ママ)そく二分 (阿部家記録) ●此年4月1日日帯食、4分酉の2刻右と下の間よりかけはじめ、酉の亥刻右の上に甚しく、酉の7刻2分余かけながら入る(備忘録) |
| 文政4年1821 | ●此年2月1日に日食6分、申の1刻下の左よりかけはじめ、申の5刻左の方に甚しく、酉の1刻上の左に終る(備忘録) |
| 文政11年1828 | ●此年9月1日日食1分半、卯の7刻の上より欠けはじめ辰の刻右の方に甚しく辰の4刻右と下の間に了る(備忘録) |
| 文政12年1829 | ●此年9月1日日食6分、辰の4刻上の方よりかけはじめ、巳の2刻左の上に甚しく、午の初刻左の下に終る(備忘録) |
| 天保8年1837 | ●9月月帯食、京都にては見えず、西国にては卯の6刻、上の方よりかけ初め、程なく欠けながら入、見へかたかるべし(備忘録) |
| 天保10年1839 | ●8月1日日帯食、卯の3刻6分余かけながら出、卯の6刻下の方に了る、東国にては浅かるべし(備忘録) |
| 天保11年1840 | ●2月1日日食5分、午の6刻右の下よりかけはじめ、未の3刻右の上に甚しく、未の8刻上の右に了る(備忘録) |
| 天保14年1843 | ●11月1日日食7分、未の5刻下の右よりかけ初め、申の1刻左の下に甚しく、申の6刻上と左の間に了る(備忘録) |
| 嘉永2年1849 | ●2月1日日食9分半、5時3分右の上よりかけはじめ、4時甚しく、4時8分左の上に終る(備忘録) |
| 嘉永3年1850 | ●正月1日日帯食3分半、7時1分下の左より欠けはじめ、7時6分左の下に甚しく7時7分3分かけながら入、西国にては2分斗りかけながら入るべし(備忘録) |
| 嘉永5年1852 | ●11月2日日食9分半余(1日の誤りか?)、朝4時7分右の上よりかけはじめ、昼9時5分甚しく8時3分左の上に了る(備忘録) |
| 安政1年1854 | ●5月1日日帯食、朝6時2分2分ばかり欠けながら出、6時4分下の方に了る、東国にては深く、西国にては見へかたかるべし(備忘録) |
| 安政3年1856 |
●9月1日日食4分半、朝4時9分上の方よりかけはじめ、昼9時6分上の左に甚しく、8時2分左の上に了る(備忘録) |
| 安政4年1857 | ●8月1日日食、京都にては見へず、西国にては食1分に充たず、昼9時9分下の右より欠けはじめ、8時1分下の方に甚しく、8時3分下の左に了れる(備忘録) |
画像の作成はアストロ・アーツ社ステラナビゲータを使用しました。