仙台藩の天文古記録 |
高野家記録 天文関連リスト |
高野家記録は刈田郡平沢村を拝領していた仙台藩の重臣・高野倫兼の日記を中心とした文献です。日食月食に関する記事はいずれも、予報と大きく異なる場合に記載されています。彗星の記録は、明和6年、7年のものがあります。 |
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寛延4年(1751)
日食二分巳初初刻正北巳初二刻甚巳正一刻復於東北食甚日テン昴八度三十四分右黄海子(戸板保佑)考也 伊勢江戸之暦日食ナシ仍湛水於盤窺之己初初二起己正一刻に復ス少しも相違ナシ この日食の食分は仙台で0.13。伊勢暦などに日食の予報がありませんでした。戸板保佑は独自にこの日食を予報しており、実際とよく合っていたとあります。 |
| 宝暦2年(1752) 立斎・・・くらいしか読めません。高野兼良と高野倫兼は、同姓ですが全く別の家系です。しかし、倫兼の兼良に対する信頼は極めて厚く、日記のいたるところに兼良の名前が登場しています。 |
●4月20日 天地儀 夕飯後立斎(高野兼良)江見?及用事相弁先年???? 天地儀立斎を話出来??為属入料?予相???大切之物? 問子孫江?得?不?朝?後 師家??納子孫継々??た????????申?二十二日の???? |
| 宝暦4年 | ●2月3日 宝暦3年11月冬至測量之儀 |
| 戸板が参加した宝暦の改暦が施行されました。この時の記録です。 | ●11月27日 改暦号宝暦甲戌暦 貞享改暦以後是を貞享暦相用し処違???付測量へ候付今後於京都改暦 宣下暦号宝陳儀被遂行新暦の号宝暦甲戌暦と?相宝??来亥暦より新暦頒行?也執政より申来。 |
| 宝暦5年(1755) 宝暦の改暦に参加した戸板保佑は改暦後も3年余り京都に残り、関流四伝の山路主住(後に幕府天文方)に算術を学び、“関流”を仙台に持ち帰ります。宝暦5年に戸板から送られてきた書状を、高野倫兼が日記に記したものです。 |
●3月13日 関流算術の事 今日???戸板善太郎(保佑)?山岸十太夫??????二三年????日は山路弥左衛門殿(山路主住)、御????知関新助殿(関孝和)より御伝授之算術等??西自???伝書等???持文有後中務太輔殿??関流の算術?????中務殿御伝書も弥左衛門殿御?持????伝可江???併此?中務殿京都御???????殿???を以清左衛門殿より?方江御伝授???申入???弥左衛門殿?????を以中務太輔殿??守?江申入上此間?????中???????申???算流の??一成???????残?????????弥左衛門????????清左衛門殿?当時算術??天下一人之御人と????? |
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宝暦13年(1763) ●9月朔日 日食推歩相違 (欠本) 宝暦の改暦の失敗を露呈させた有名な日食です。仙台では大塚頼充、戸板保佑がこの日食の予報を行っています。しかし、宝暦13年の日記は欠本になっているので、表題のみが伝わっていますが内容はわかりません。 |
| 宝暦14年(1764) 9月下旬、青空の中に星が見えたことに対しての戸板保佑の見解が書かれています。 |
●10月朔日 日中星顕非変事 去月末日中星光得義仰の説??江戸より申告来に付き戸板氏へ伺??太白星に候 離日四・五十度に?得多?天?時??見得?今小青天の時可伺?日より西四十度?明方の明星の出??をめあてにし可伺去月27・8日?は月の近に太白星見え候 諸人見付義と?変事にぞ無也申来 |
![]() 明和2年7月の月食について、高野倫兼が戸板に送った手紙の内容と、その返答が記されています。 戸板は藩の天文学者として、天変があるとこのように藩の重臣から質問を受けていたのでしょう。戸板の記録としても「天変を報告するたびに賞された」とあります。 |
明和2年(1765) ●7月14日 月食皆既 今朝月食皆既朝四鼓半?虧始七曜暦三更二点とあり一刻半位違九鼓小半過皆既七曜暦三更五点とあり二刻位違八鼓三寸位前食甚七曜暦四更二点とあり二刻位違八鼓半四寸位前生光七曜暦四更三点とあり密合也復円?催眠??此所?翌々日手便を以戸板氏江問訊 ●7月27日 月食の問、戸板返答 去十四日之月食之事戸板氏より問??返書に戸板氏所湯長申列時刻考たく去年之日食大違今秋月食積考た???改暦の時?不伺有?物触考??を以及改暦?仕??所秘而如??不??可??新法もい???と不仕事御時物と???更点??儀如来示朝を五に割一更二更を仕 更を又五に割一点二点と仕て又一点半に??一点????二点と仕二点半???三点と申候更??以問言の?申来 |
| 明和3年(1766) | ●2月27日 星時計 |
![]() 明和4年元旦に起こるはずの日食が起こりませんでした。これについて、戸板への質問と、戸板から寄せられた返答が書かれています。これだけ拡大してもぎりぎり太陽は欠けません・・・白い線が月の輪郭。江戸での食分は0.03という日食でした。 |
明和4年(1767) ●正月元日、日食不食(退隠記) 明和四年丁亥正月小朔日丙寅 太陽女宿二度日食三分未正四刻八鼓半前?正南中初二剋甚申正二剋7鼓半比復東南食甚?女三度六十六分自九鼓伺食至日没不食 日食三分未正四起於正南申初二甚申正二復於東南食甚日テン女三度六十六分 今日?と時?庭に出て伺ふ???を烈?????待り?く神???西をう???????御?の?の雪の無??九半時より日没??く伺?不食 烈????叶以?伺う不食之???之?う戸板氏へ以??書問之 正月5日 日食の事 戸板氏返?????????一向ふ????陽暦之食????食???より?ふ見?方??見?半????之???暦法天に密合ふ仕?????早速御前へ報品々申上?暦??天?密合ふ????大切??? 公儀?御吟味?有??? |
| 明和4年 4月7日にかなり強い地震が仙台を襲いました。それに前後して現れた旗雲や怪鳥と天変との関連について、高野倫兼が戸板に問合わせた事に対するコメントです。 |
●4月14日 旗雲怪鳥天変戸板氏答 御自筆記 戸板氏???問之返書 |
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明和6年(1769) ●8月1日 彗星此末段々出 御自筆記(欠本) これらは、メシエが発見した彗星の記録です。あの百武彗星のような長い尾を持った彗星だったのでしょう。彗星の観測記録が図として残されており大変貴重なものです。この彗星に対する戸板と大塚のコメントが残っていないことが、大変に残念でなりません・・・ToT) |
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●10月18日 彗星また出現 御自筆記 12月23日 彗星の図、戸板氏より来る 明け方に長〜〜〜い尾を見せていたメシエ彗星が太陽に接近した後、今度は夕方西の空に見えるようになりました。12月には戸板から観測記録が届いています。写本とはいえ、戸板の観測記録は他に残っていないので、たいへん貴重な記録です。 |
| 明和6年 | ●9月24日 不忘山御登山太陽出潮の図御自筆記(欠本) |
| 明和6年 | ●10月28日 光物 多分、流れ星の記述でしょう? |
| 明和7年(1770) ●6月8日 孛星出現 ![]() |
先?より??御念書御安?諸説?義 先達???の義?付所の?仰下???厚御志???読?委細心得?来事????の?星の事に付く??いふの?相細別??????星は孛と相見得申し??箕宿(いて座西部)の分に??箕斗宿(いて座南斗六星)に相近相見????初は天弁星(わし座・たて座の一部)の辺より見得?昨夜 漸台星(こと座の四角形)の遠近相伺申?れ??初赤道南?り相現?今????候 北に緯?進て紫微?(天の北極近辺)??は??戸勢に相見得??云々
明和6年に続き、翌年にも彗星(1770T)が現れました。孛星は尾のない(短い)彗星のことです。大塚頼充のコメントには“地震”“孛悪気所生”“彗孛出大水大飢来”などと書かれていますから、彗星がいかに災害をもたらすものなのかを説明しているのでしょう。 |
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明和7年
戸板氏善太郎御用見?事?被?見話?出?先日木星月に入を見ん事成???吉凶?無く??古????沙汰して行????立太白星入月中光・・・・ この年に起こった木星食に関する質問に対する戸板保佑の返答です。金星(太白)が月に隠された現象を引用して説明されています。(1770年6月8日 20時43分〜22時9分) |
| 安永2年(1773) | ●3月16日 月食候事 |
| 安永2年(1773) | ●4月13日 日月影色淡く |
| 安永2年(1773) | ●5月17日 白虹経天 |
| 安永7年(1778) | ●7月7日 七夕の祝廃候 七夕之祝儀本年佐太申に付廃之 七夕の祝いが中止になりました。この日には、一族や家来に祝儀を渡す習慣がありました。 |
| 安永7年(1778) 彗星と書かれていますが、この時期に該当するような、明るい彗星は見当たりません。多分、雲間に現れたすばるを見間違えたのでしょう。 |
●閏7月25日 過9日宵間白虹亘天、閏7月28日 気変白雲彗星 閏7月25日 過9日宵間白虹真天南方より北方迄衆人?見皆?彗星東南之間?夜半見と唱ふ?続?天不見? 閏7月27日 過9日白く?真天と申彗星の事?未及?西??は日?信事?以和???????率????申入???申す??見へは?常の雲??無し申????変異?係し事?い?????気?の義?と??て?事を?に ??吉凶に?事に古人申得???白雲の??に稀??象にて?見申候又異星の唱???及??候 ?に天象観??共一切不?見???多郎殿昴?雲間に晴を??異星??見遠くの方??問返? |
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