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天文学史・1

 

 
■最初の天文学者
 幕府5代将軍綱吉の頃。
 幕府で碁方を勤めていた
渋川春海(しぶかわはるみ)は、元で作られた授時暦を基に貞享暦を作りました。(貞享の改暦) この時春海は、土御門泰福、徳川光圀など、朝廷や幕府の要人の協力を得たと言われています。 幕府は天文方を新設し、春海を初代の天文方に任命しました。しかし、春海や当時の人々が天文と呼んでいたのは、天文学ではありませんでした。春海は、土御門泰福から学んだ土御門神道をベースに、自から考案した貞享暦などを合わせて土守神道を興しました。
 元禄6年、江戸藩邸で勘定方を勤めていた
江志知辰が、春海の門人となり、初めて天文を学びました。彼は、中西流の数学や易にも造詣が深かったとあります。そして、元禄16年には、藩主に対して天文の講義を行っていたとあります。この頃の仙台藩の儒学者は、みな山崎闇斎に儒学と神道を学んでいました。そして、春海もまた、山崎闇斎の神道高弟であったことから、春海の土守神道は仙台で広く受け入れられ、藩の学問として位置付けられたのです。
 
■渋川敬也と渋川家の混乱
 正徳四年に、江志知辰の弟子であった遠藤盛俊が、晩年の渋川春海について天文暦術の伝授を受けました。この時、盛俊は多くの秘伝書を預かっていますが、この中には、国の重要文化財に指定されている『坤輿万国全図(宮城県図書館蔵)』も含まれていたと考えられています。
 遠藤盛俊への伝授は、春海の息子である昔尹が病気がちであったため、家道の土守神道の断絶を危惧しての措置でした。昔尹は正徳五年の春に、春海も秋に亡くなってしまい、天文方は春海の甥である敬尹が継ぎました。秘伝書類は敬尹が一人前になったときに返伝することになっていたのです。
 しかし、20才で3代目の天文方となった渋川敬尹も病気がちであり、彼の子供も幼かったため、盛俊は、享保4年に自分の弟子であった
入間川重恒を渋川家の養子とすることにしました。仙台藩の後ろ盾もあり、享保6年に養子が許可され、重恒は渋川敬也を名乗ることになります。享保11年に敬尹が31才で亡くなり、敬也が4代目の天文方になりました。ところが、その敬也も翌享保12年3月末に40才で亡くなってしまいました。
 5代目の天文方は、敬尹の子供である11才の則休が継ぎました。そして、春海の学問は、遠藤盛俊の高弟・
佐竹義根が継ぐことになりました。盛俊は義根に対して、則休が一人前になった時に、学問を返すように命じています。しかし、敬也の死をきっかけに、仙台は渋川家と距離を置くようになったようです。

        (写真は、青葉区葛岡霊園にある遠藤盛俊の墓)

 
■わが師は馬鹿者なり 〜佐竹義根と戸板保佑
 享保13年、仙台藩の天文方となっていた遠藤盛俊に、21歳の戸板保佑が入門します。彼は、幼い頃から父に算術を学び、江志知辰の算術門人であった青木長由より中西流の免許を受けていました。3年の後、保佑にすべてを伝授した盛俊は、藩の天文方の地位も保佑に譲ります。引退後の盛俊は、春海の慰霊祭を宮城岩手山形の5つの神社で行うと、その2年後、享保19年に亡くなりました。藩の天文方となった戸板保佑は、自宅に渾天儀を設置し、天体に異変があると城主に報告する役目を仰せ付けられました。しかし、彼が受け継いだのは春海の学問の中の一部だったのです。学問の主流は佐竹義根が受け継いでおり、保佑は彼をサポートする立場に過ぎなかったのです。
 戸板保佑は、遠藤盛俊に入門する時に、「予が一生を苦しむるの始、此に有り」と記し、更に「不侫思うに七左衛門(盛俊)は何も知らない馬鹿者なり。算数は知らず、天文は不埒なる事多く、理に違いたる事を云い」と酷評しています。青木長由は遠藤盛俊と同じく、江志知辰の門人でしたが、ある時期から仲たがいを起こしていたのです。こんな話を聞かされ、ためらいを見せていた保佑でしたが、周囲に説得され、しぶしぶ盛俊に入門したのです。
 一方、元来病弱であった佐竹義根は、春海の統伝が絶えることを危惧して
遠藤信近高野兼良らに土守神道を伝授していきます。しかし、戸板保佑は神道を学ぶことを拒否し、青木長由らと共に天体観測を行い、暦の改良を行っていました。保佑の自伝に義根の名前は、一度も登場しないことからも、二人の関係が友好的ではなかったことが想像できます。
 
■改暦前夜
 渋川家の学問である土守神道は、土御門神道を補う関係にあったので、統伝を譲る時には土御門家の承認が必要でした。また、この学問は一子相伝のシステムを採っていました。佐竹義根は、自分が統伝を受けたいきさつを書状に記し、土御門家への入門と天文道を広く普及させたい旨を申し出ました。春海の盟友・土御門泰福の末子であった泰邦は、7歳で父を亡くし、兄の泰連に育てられ、12歳の時に陰陽頭に任命されました。土御門家でも天文道は唯授一人であったため、学問が沈滞し門人も少なかったのです。そこへ春海の統伝を預かり、多くの門人を育てている佐竹義根から書状が届いたのです。
 この頃、幕府には新しい暦を導入しようとする動きがありました。将軍吉宗は禁書の令を緩め、中国経由でヨーロッパの暦書を輸入し、翻訳作業を始めていました。これに合わせて、渋川則休や猪飼豊次郎(渋川家暦官、後に天文方)が呼ばれて改暦を行う準備が進められていました。互いに信じる学問が衰退していく危機感を抱いていた二人は、当然のように手を結びました。一方で、渋川家だけでは改暦が行えないと判断した幕府は、西川正休を天文方に抜擢して則休と共に改暦に当たらせることにしたのです。

 改暦のうわさは、佐竹義根を通じて戸板保佑の耳にも入っていました。観測に基づき暦の改良を続けた努力は、少しづつ藩の重臣たちにも認められるようになり、禄も増えました。いつしか保佑は、自分の手による改暦を夢見ていたのです。
  「ありがたや身にも余りしみことのり うきし夢に受くると思えど」
 本当に改暦の夢を見た戸板が、目を覚まして苦笑いしながら読んだ歌です・・・。

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