杜の都の天文学史・2 |
| ■鷹鳥を取りて舞う 〜宝暦の改暦 |
| 後に宝暦の改暦と呼ばれる事業が始まりました。西川正休は算術に疎かったので、江戸から山路主住を始めとする和算家を連れてきました。しかし、まだまだ西洋暦の研究が足らず、誰も暦を作ることができなかったのです。寛延3年(1750)に渋川則休が34歳で亡くなり、翌年徳川吉宗が亡くなると、正休は後ろ盾を失いました。これをチャンスと見た泰邦は、暦の欠点を次々に指摘して正休を窮地に追い込むと、ついには追放してしまいました。 そして、宝暦3年、保佑に改暦の命が下されました。泰邦が自分の門人である義根と保佑を京都に呼んだのです。しかし、義根は病気であったため、保佑だけが上京することになりました。意欲を持って改暦に臨んだ保佑でしたが、やはり価値観の違う泰邦とは意見が合わなかったようです。暦の原点となるはずの冬至の観測も、極めて儀式的な要素が強いものであったことが記録に見つかります。 こうして宝暦4年(1754)、ついに宝暦暦が完成しました。貞享暦を手直ししただけの暦です。渋川春海と土御門泰福が作りあげた貞享暦を守り抜いた泰邦と義根、新しい暦が作れなかった保佑・・・。さらに泰邦は、暦に関する様々な権利をも手に入れたのでした。 |
| ■鳥また助かるところを見る |
| 保佑の記録には、改暦についての記述がほとんどありません。保佑と泰邦が意見が合わず対立したことを聞きつけた藩主が、泰邦に対して保佑の待遇を改善するようにと使者を送っています。改暦について記さなかったことは、城主の思いやりに対する保佑の精一杯の恩返しだったのでしょう。 ただ一つ、宝暦7年3月初旬の夢として「鷹鳥を取りて舞う、鳥また助かるところを見る」と記されています。時を同じくして、保佑は誓約書を記し、土御門泰邦の門人となっています・・・。 失意の中で、保佑は西川正休の手伝であった関流の算術家・山路主住(後に天文方となる)と出会いました。関孝和は暦作りのために円を研究していたとされています。改暦後、引き続き三年間の観測が京都で行われ、その間に保佑は、主住から関流の算術を学び仙台に持ち帰りました。その後も書状や江戸の門人を通じて、半ばで終ってしまった暦の研究を続けました。保佑らが研究していたのは、中国で編纂された西洋暦を記した「暦算全書」でした。これは、地球の周りを太陽が回り、その太陽の周りを他の惑星が回るという、チコ・ブラーエの天動説でした。見かけは天動説ですが、計算さえ正しく行えば地動説と同じ結果が得られるものです。この後、二十年以上の歳月をかけて、保佑は山路との研究成果を「関算四伝書」五百冊、「天文四伝書」五百冊としてまとめ上げるのでした。 |
| ■次の時代へ |
| 一方、改暦に前後して、佐竹義根の門人であった遠藤信近、伊達将監(川崎伊達家)、高野兼良が相次いで亡くなってしまいました。しかし、義根の統伝は殿村晴辰、高橋道三、大塚頼充、別所実有、桜田利慶、橋元治正など多くの人々に受け継がれていきました。高橋道三は鍼医として、大塚頼充は小姓などを勤めながら仙台で天文道の普及に尽くし、志村弘強、志村東嶼、更には桜田虎門などの儒学者に大きな影響を与えていきました。別所実有は仙台における徂徠学の祖と言われるように、天文道を学びつつも他の学問で名を残しています。山崎闇斎の学問・崎門学一色とまで言われた仙台にも、徐々に様々な学問が芽生えつつあったのです。そして、桜田利慶、橋元治正は商人・名取春仲の師として岩出山に天文道を伝えるきっかけを作ります。佐竹義根は、東北南部一帯に3000人近い門人を育てました。米沢藩の穴沢篤信も佐竹義根の門人であったと記されています。 天文道の佐竹義根と天文学の戸板保佑。この二人の雄は、まさに陰と陽の関係にあったのです。決して交わることなく、お互いに影響を及ぼしながら、仙台の思想史と科学史を築き挙げてきました。全国に通用する和算家として名を残した戸板保佑に対し、名前すら知られていない佐竹義根。しかし、当時の二人の関係は、まさにこの逆だったと思われます。晩年に至るまで、開花することがなかった保佑の学問。この苦しみが、恐らく「予が一生を苦しむの始、此れに有り」の真実なのでしょう。 佐竹義根は明和4年に79歳で、戸板保佑は天明4年(1784)に76歳で亡くなっています。 |
| ■改暦前夜・2 〜寛政の改暦 |
| 宝暦暦は完成後間もない宝暦13年に日食の予報に失敗し、完成度の低さを露呈しました。その後、修正宝暦暦が作られますが、こちらの精度もあまり高くありませんでした。こうした中で、戸板保佑の門人である青田依定が天文方吉田家の暦官となり、船山輔之が天文方山路家の暦官となりました。また、主住の子、之徽には後継がなかったため、仙台の小倉雅久の次男が養子となり、後に天文方となっています。このように、保佑の暦は、幕府天文方に広く浸透して行きました。 この時期に、仙台にあって保佑の天文学を受け継いだのが、藤広則でした。長い間、保佑と共に観測に励み、明和8年(1771)年に土御門家に入門して、寛政元年(1789)年に暦法の伝授を受けています。現在、仙台市天文台に残されている渾天儀は、保佑の指導の下で広則が作ったものです。広則の下には、数学を学ぶために、武士だけではなく商人や農民も、あるいは、儒学者、医者などが集まっていました。和算家として知られている以外の門人として、特筆すべきは、岩出山の名取春仲、水沢の小圃仲達、儒学者の桜田虎門の3人でしょう。 この頃、幕府は次の改暦を目論んでいたようで、寛政初期にたびたび天文方に命じて西洋流の試暦を作らせています。ここで採用されていたのは、天文四伝書の中の「崇貞暦書」戸板保佑の暦でした。 |
| ■寛政の改暦 |
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寛政8年、遂に幕府は改暦を断行します。幕府天文方から山路徳風(仙台藩士・小倉雅久の次男)と、船山輔之。寛政9年には土御門家の要請を受けて、広則の弟子である中塚利為、遠藤清寅、奥野栄清の3人が京都に出かけています。ところが、この改暦で採用されたのは、戸板保佑の暦ではありませんでした。 この改暦は、大阪の同心・高橋至時が天文方に抜擢されて行われました。至時は杵築藩医であった麻田剛立の弟子で、商人の間重富と3人で暦を研究していたのです。彼らが研究していた暦は、山路・戸板が研究していたの暦より100年も進んだ暦であり、惑星の楕円運動(ケプラーの法則)も考慮したものだったのです。さらに、彼らは観測機器の改良にも熱心で、使っていた機器は仙台藩の機器より10倍以上もの精度を持っていました。 左の図は、チコブラーエの天動説です。地球の周りを太陽が回り、他の惑星は太陽の周りを回っています。計算さえ正しく行えば、正しい答えが得られるモデルです。 |