杜の都の天文学史・4 |
| ■渋川家天文道 〜あるいは土守神道?安家天文道?土御門神道? |
| 安倍晴明を祖とする土御門家には、何かと呪術的なイメージが付きまといますが、土御門神道は垂加神道の影響を受けた学問です。東洋占星術ともいうべき考え方もふんだんに取り入れられ、土御門家で行われていた様々な神道儀式のバックボーンとなっていたのでしょう。仙台に残る天文道の史料は、土守神道が土御門神道をベースとしていたこともあり、2つの神道を厳密に区別できない状態にあります。 渋川春海から伝わった学問は、天文道・暦道・神道・兵法の4つのカテゴリーから成立っています。天文道は北辰(北極星周辺の星々)・三天(宗動天・惑星天・恒星天、あるいは、夏至・春秋分・冬至)・九道(日月五惑星・恒星の軌道)、暦道は七政(日月五惑星)・四余(天文計算のための仮想惑星)、神道は三種・神・土金、兵法は一備・八計・十戦に細分され、更に九道は日持・軍配に分かれています。 遊佐木斎、芦東山などの仙台を代表する儒学者の中にも、この学問との関わりを見出すことができます。仙台の儒学者は山崎闇斎から儒学だけでなく垂加神道も学んでいたため、垂加神道と関わりの深い土守神道を受け入れやすかったのでしょう。 |
| ■遊佐木斎と芦東山 |
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仙台藩を代表する儒学者として知られている遊佐木斎は、春海の神道高弟である跡部光海から、神道を伝授されており、木斎の記録の中には、たびたび春海の記述が見られます。木斎は「天や地に通じているだけでは単なる技術である。春海のように、天地だけでなく人道にも通じてこそ、聖賢とよべるのである」と記しており、当時の人々が天文を聖賢へ通じる道として、捉えていたことがわかります。 芦東山は「無刑録」18冊を著した儒学者です。若い頃に、晩年の江志知辰について易や天文を学んでいたほか、遠藤盛俊、入間川重恒、佐竹義根、大塚頼充などと交流がありました。特に、佐竹義根とは改暦などを話題に書状を交換していたことが判っています。 儒学が広く教えることを目標にした一方で、神道は教義を秘伝化して特定の人々にしか伝えないのが特徴です。その結果、佐竹義根が仙台に広めたとはいえ、土守神道に関する史料はあまり残されていなかったのです。 |
| ■佐竹義根の門人たち |
| 佐竹義根の高弟であった高野兼良は、藩の重臣である高野倫兼(兼良とは別家)に厚い信頼を得ていました。倫兼の日記には、高野兼良の記述がたくさん見つかるほか、天文に関する記述も多くみられます。ほとんどは日月食や彗星に関するもので、戸板から送られてきた書状の写しなども含まれており、たいへん興味深い史料です。 高野兼良が、若くして亡くなったため、大塚頼充が兼良の統伝を継ぎました。彼は、祈祷などのほか、洞雲寺の観台で天体観測を行っており、彗星に関する勘文の記録も残されています。また、占いに使う筮(めとぎ)を萩の枝で作り土御門家に献上するなどの記録も見つかります。この時期、大塚と一緒に活躍した高橋通三(?-1775)は、林子平が優秀な天文学者として挙げている人物です。 また、殿村晴辰(生没年不詳)は、筑紫で生まれ、寛保初年に仙台に来て佐竹の学問が誉れ高いことを知り門人となったとあります。『天学答問記』(宝暦10年:1760)や『天文拾遺』(宝暦12年:1762)など、この学問の内容を知る上で役立つ著作を残しています。 |
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| ■大塚後の佐竹派 |
| 大塚頼充の門人に志村弘強(1770-1846)・東嶼(1752-1802)兄弟がいます。兄の志村五城と共に仙台だけではなく江戸でも活躍した儒学者です。この東嶼の門人である桜田虎門(1758-1839)もまた、仙台を代表する儒学者です。幕府の学問所・麹渓書院の教員を勤めたほか、仙台藩江戸藩邸に順造館を造るなど学問の振興に努めますが、養賢堂の改革を巡って大槻平泉と対立しました。桜田は若い頃に藤広則から天文を学んでいたこともあり、著書に易学や天文に関するものが多いのも特徴です。 大塚頼充の後継者として活躍したのは小梁川貴矩(1769-1840)です。藩命で大塚の門人となり、土御門家から春鶯の号を賜っています。貴矩の弟子には、沢木員昆(1778-1830)、三浦義和(1799-1857)がいます。沢木員昆は藩より学資を支給され、後に土御門家の伝を受け司天官に任命されたとあります。また、三浦義和は山形県東根の人で、”坤輿万国全図”と”天文図”の模写図を残しています。 |