杜の都の天文学史・6 |
| ■蘭学を学んだ人々 |
| さて、戸板保佑に代表される和算家たち、佐竹義根に代表される神道家たちとは、明らかに性格を異にする人々を紹介いたしましょう。彼らは蘭学を早くに取り入れ、主に江戸で活躍していた学者達であり天文学者ではありません。しかし、幕末の天文学に大きな影響を与えた天文方高橋家・渋川家をサポートしたということで注目すべき人たちです。仙台藩の学問史上、有名な人たちが多く含まれています。 |
| ■大槻玄沢に至るまで |
| 別所実有(1722-1772)は、仙台に徂徠学の祖と言われる一方で、佐竹義根の門人として神道も学んでいました。いろいろな学問を学ぶ中で、実有は徂徠学を選んだと言うことなのでしょう。 |
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別所実有の弟子には江戸邸の藩医であった工藤平助(1734-1800)がいます。工藤は長崎の通詞たちと懇意にしており、天文や西洋の機器などに詳しかったとあります。また藩医の傍ら弁護士のような役目も引き受けており、諸藩の抱える問題にも詳しかったようです。田沼意次に提出した「赤蝦夷風説考」も、このような情報を基に書かれたと言われています。長崎通詞たちと弟子の交換遊学も行っており、工藤の推薦で長崎遊学を行った人物には林子平、大槻玄沢などがいます。 林子平(1738-1797)は「海国兵談」(寛政2年:1790)を著し、幕府の咎めを受け寛政5年(1793)に亡くなった先覚者として知られています。林は長崎に遊学した際にオランダ商館長アーレント・ウイルレムヘイトから世界地理や天文を学んでいます。また、オランダ通詞・本木良永のもとで「興地国名訳」(1777)を写していますが、この時本木は地動説を紹介した「天地二球用法」(1774)の翻訳をすでに済ませていますので、子平はいち早く地動説に触れる機会がありました。また、上書の中には、学問所で数学を教えることを提案し、そのために戸板を登用するよう書かれているなど、戸板とも面識があったことが伺われます。塩釜神社には子平の作った日時計が残されています。 子平の思想に坤輿万国全図の影響があれば面白いのですが・・・。 (左の写真は塩釜神社にあるレプリカです。本物は神社博物館にあります) |
| ■大槻玄沢とその子孫 |
| 仙台藩の支藩である一関藩の出身の大槻玄沢(1757-1827)は、蘭学階梯を著した蘭学者としてたいへんに有名です。玄沢は寛政の改暦後に幕府天文方で蘭書の翻訳にあたっていました。玄沢は養賢堂を改革した大槻平泉(へいせん)の親戚にあたります。若い頃に藩命で江戸に遊学して、杉田玄白、前野良沢に西洋医術を学び才覚を著します。この時、一関藩に玄沢の江戸遊学の延期を願い出たのが工藤でした。西洋の暦にも関心があったようで、寛政6年(1794)以後、新暦の正月を祝う「新元会」を開いていました。大槻には数々の著作がありますが、志村弘強と共に著した『環海異聞』(文化4年:1807)があり、仙台藩の学者たちとの交流も見受けられます。大槻の子供である大槻玄幹は、幕府の蛮書和解役を勤める傍ら、養賢堂の蘭学和解方も兼任していました。また、玄幹の子である大槻玄東(1813-1842)は、天文方で翻訳作業にあたっています |
| ■伊能忠敬の後援者 |
| 工藤の姻戚関係にあたる仙台藩医・桑原隆朝(りゅうちょう・二代目:1744-1810)の娘のぶは、伊能忠敬の3番目の妻となりました。のぶは若くして亡くなってしまいますが、桑原は伊能のよき理解者として全国測量をサポートしていました。また、全国測量の幕府側責任者であった若年寄の堀田摂津守正敦(1755-1832)は、伊達家六代藩主・伊達宗村の子で堀田家の養子となっています。桑原とは幼い頃に面識があったと考えられ、このつながりゆえに、桑原が伊能と高橋至時の上司である堀田の間を取り持っていたとされています。
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| ■高野長英 |
| 一方、シーボルトに蘭学を学んだ高野長英(1804-1850)も、西洋天文学の心得がありました。上記の人々と直接関係があった訳ではありませんが、西洋の学問を学んでいた代表的な人物です。高野が弟子の内田五観(1805-1882)宛てに書いた天文の解説などが残されています。内田五観は明治6年(1873)に太陽暦が採用されたときに、中心的な役割を果たした天文学者です。 |